teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]


(無題)

 投稿者:07ks1354  投稿日:2010年 6月 7日(月)18時23分0秒
返信・引用
  「知識人とは、亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」
著者が言う知識人は現代にどれほどいるのだろう。知識人の例として授業内でもいくつか挙げられたが、その人たちは本当にここでいう知識人と合致しているのだろうか。私も知識人というと、あらゆる知識を持っている人というイメージがあった。それは具体的には大学の教授であったり、その他何かを専門的に学んでいる人だと思っていた。しかしこれは著者の考えからすると対称的な立場の人々だ。そうなると、著者が表す知識人が、なぜ「知識人」と言うのか、よくわからない。方向がずれるが、私が考えていた知識人が知識人でないなら、一体何なんだろう?
 一応ここでは著者が言うそれが知識人だとする。しかし、著者も言うように、現代では様々な力があるなかで、その力に対して真実を語れる人などいるのだろうか。現代には私の知る限り、真の知識人などいないような気がする。政治家は国家に属しているし、先生だって学校という組織に属している。人々は何かしらに属していて、たとえ何かの権力に対して抵抗していたとしても、一方では何かの力(国家、所属団体、社会制度、社会通念、宗教など)に縛られていると思う。何にも縛られるものがなく、自由に何かを語ったり抵抗したりすることが出来る人がいるとすれば、それは有名人ではない。有名人がメディアの前で語るとき、国家や聴衆によって何かしら制限がされると思うから。だから、もし真の知識人が現代にいるとすれば、もしかしたら私の周りにもいる一般の人なのかもしれないと思うが、結局のところ、どういう人がそうであるのかは私にはわからないので指摘することは出来ない。
ただ、この本のなかでいう知識人が、真の知識人とするならば、多くの人は知識人の意味を履き違えていると思う。それに気づかなければ、これからも真の知識人が現れることはないのではないだろうか。
 
 

知識人とは何か

 投稿者:07ks1105  投稿日:2010年 6月 7日(月)16時32分46秒
返信・引用
  この本を読むまで、私の抱いていた知識人のイメージは、テレビのニュースやバラエティー番組に出演して国政や社会保障、外交について政治家に異論を述べる人、現在の日本経済の停滞や、それに伴った節約術などを述べる人、つまり現在の社会の問題に対してのプロフェッショナルの人をイメージしていた。いわゆる大学の教授や専門家=知識人という認識だ。その為授業中、先生に知識人とはどのようなひとか。と尋ねられた時に名前が挙がった坂本竜馬やチェ・ゲバラに対して、友里乃が言った、「彼らは知識人というより、ヒーローや英雄という存在であると思う。」という言葉に私も納得した。しかし、本を読み進めるうちに、特定の分野に知識のない者の上に立ち、呼びかけることのできる英雄は知識人であるということに納得させられた。第六章で知識人は世俗的な存在と記述されていたが、知識人が世俗的な存在であり続けるためには上記したように、国家などの強い権力をもつ集団に忠誠をつくすのではなく、ある分野に専門的でない非権力者である一般人の立場になり、チェ・ゲバラなどの革命家のように政治的開放の可能性をとき、指導層に批判を突き付けた結果として一般人の英雄と称されるのだろうと思った。しかし、日本には「出る杭は打たれる」ということわざもあるように、江戸時代の兵学者である佐久間象山や統幕や明治維新に影響を与えた坂本竜馬のような国家に反する知識人は暗殺されている。知識人も人間であり、国家共同体の一人であるにもかかわらず、自らの命をかけてまで信念を曲げずに、何に左右されることなく、現実感覚を持ち、自身を見失わずに奮闘するというのはあまりにも重い使命であると感じた。  

知識人とは何か

 投稿者:07ks1081  投稿日:2010年 5月24日(月)23時27分42秒
返信・引用
   本書は一見、知識人という、私たち世間の一般人からかけ離れた存在について書かれているように感じられる。実際に、真の知識人とは権威や権力者に追従することなく自分が信じる道を進むものであると述べられている。これは私達の世界から切り離された遠いレベルにある世界での出来事のように思われる。しかし、本書で挙げられている真の知識人の在り方は私達の日常レベルでも実践可能なものである。例えば、むやみに周囲の人の考え方に同調したり、流行にのったりすることをやめ、自分の意志や価値観を優先して実現することだ。
 本書には知識人はいつも失敗する神々に追従するということが批判的に書かれている。これはただ良いと思われ、自分の利益になりそうなことに疑いもなく飛びつき、猛進的に崇拝することの危険性を示唆している。信じることは問題ではない。その信じる対象の実態は本当に見た目通りなのかをチェックする姿勢を常に持ち合わせていることは望んでもいない方向へ流されないようにするという点で、知識人であろうが一般人であろうが大切なことである。筆者からそのような強いメッセージを感じた。
 

日本人はなぜ無宗教なのか

 投稿者:07ks1081  投稿日:2010年 5月22日(土)13時18分29秒
返信・引用
   本書を読んで、日本人は自らを「無宗教」であるというのにはさまざまな歴史的・文化的背景が関わっていることを知った。その大きな要因として、日本人は宗教=創唱宗教という観念があるために自らが信仰している自然宗教に気づかない(宗教とは見なさない)ことがある。また、宗教が創唱宗教のことを意味するようになったのが明治時代以降であるように、この時代は現代の日本人のもととなる宗教観を形成するのに深くかかわった。このことは注目に値すると思う。中央集権国家を作るために神道をもって天皇崇拝を強化し、信仰を個人的な私事に限定させたことは本来の宗教心を後退させた。
 宗教を信仰する理由は、人生の不条理や苦しみと向き合うためである。日本人が無宗教だと標榜し、宗教を必要としないということは、そのような暗い深淵を見つめようとせず、真剣に向き合おうとしない生き方をしているとも受け止められる。そういう意味で、無宗教を標榜することの多い日本人は人間として豊かな人生を送っているとは言い難い。
 私は、なにか信じる対象を持つことによって人生で抱える矛盾や不幸を納得することができ、前向きに生きられると思う。だから科学が進歩して目に見えるものだけが真実だと思われるような時代でも、宗教の果たす役割は変わらず重要なものだと感じている。
 

『日本人はなぜ無宗教なのか』

 投稿者:07ks1129  投稿日:2010年 5月20日(木)22時01分50秒
返信・引用
   私がはじめて自分自身の宗教へのあり方についてとてつもない違和感を覚えたのは、3年のゼミで校外実習のプレゼンテーマについて考えたときのことだ。困ったときの神頼みをして、初詣に行って柏手を打つ。それにもかかわらず、信仰如何の質問に対してはてんで答えることができない。そのことへの違和感に気づいてから、何故これまでの自分は、無宗教なのかもしれないがしかし神の存在は否定していないし墓参も初詣も行うという宙ぶらりんなスタンスのまま、それを見て見ぬ素振りができていたのだろうと不思議にすら思った。ゆえに私にとって『日本人はなぜ無宗教なのか』は、堂々巡りで答えのなかった自問自答に具体的な答えめいたものを導いてくれた本だといって過言ではない。

 日本人の言う無宗教は、キリスト教などの教祖があって教典のある「創唱宗教」-信心深く食事の前や寝る前にお祈りをして休日には協会へ通うような信仰心―と比較したときに、自分たちが行ってきたものがあまりに自然な年中行事であるがゆえにそれが宗教だと気付かれない「自然宗教」であるということが述べられていたが、まさかその原因のひとつが明治維新政府によるイデオロギー操作にあったことだとは思いもしなかった。年若く支配者の素養のない天皇が政治の全権を把握し執り行っているという印象を国民に与え、絶対的な支配者として君臨させるために行った教化。廃仏毀釈や「自然宗教」への卑下。それにより無宗教の標榜が自分の身を守ることでもあったという。政治と宗教の関わりが強固で切っても切れないものだということは世界の歴史から見ても明らかなことであるが、こんなに身近なところに繋がっているものだと思うとますます日本人の「無宗教」の奥深さについて考えずにはいられなかった。

 講義中に、自分が死んだときに遺骨を墓に入れなくても別に構わないということを私は口にしたが、それには個人的に思うところがあるからである。もちろんしゃれこうべを足蹴にしたりそこら辺に捨てるとしたらそれはそれで抵抗があるし、そういうことではなくて、他人の手を煩わせることがいやだなーと漠然に思っているからだ。極めて個人的な経験になるため語るのが恥ずかしいのだが、7年前に祖父が亡くなったとき、墓地の用意もなく、祖父の実家に入れてもらえないかということをそれとなく相談したことがあった。しかし様々な事情から入れることを認めてもらえず、近隣の霊園を探して墓をたてる資金が貯まるまで、やむを得ずにお寺さんに預かってもらうしかなかった。今では万事解決し見晴らしの良い長閑な霊園で静かに眠っているのであるが、それまでの間私はなんともみじめなような、憐れなような言葉に言い表せない思いに苛まれたのだ。そしてひどい憤り。仕方のないことだったということはわかる。遠方ゆえに私たち家族が頻繁に行って世話をすることはできないということや宗派の問題もあいまって、そうすることはできないのだと頭では理解していたが、けれどどうしても納得することはできなかった。そういったことのすべての原因が葬式仏教にあるとはいえないのだが、そのせいか私は日本の弔いの方法にひどく鼻白んでしまった。不敬なことを言うが、戒名をもらうにも何十万あるいはそれ以上の金額を支払い、意味のわからない読経をさせられ、ありがたい説法を聞き、仏壇で南無妙法蓮華経と唱える、そのたびに私はあのときのことを思い出す。弔うことは遺族の心の慰めになり、救いであり、免罪符なのかもしれない。実際に私だって、祖父の墓所が決まったときはすごくうれしかったし安堵した。けれど私の意識の根底にはいつも葬式仏教に対する疑心がとぐろを巻いている。だから私は必要とあらば自分の遺骨を墓に入れずとも構わないと考えているのだ。けれどやっぱり結局のところ、私が死んだら親族が供養するに違いはないだろうし、下手なことをして親戚や近所がなんて言うかを想像したらぞっとする。かのなつかしきセカチューみたいなロマンチックな散骨を期待しているわけではないし・・・

 ともあれこれからも私は日本人の無宗教の問題について深く考えていくつもりである。この本を頼りに。そして考えれば考えるほど自分の宗教に対する姿勢、考え方は絶えず変わり続けていくだろうが、最終的に得る結論がどんなものであるか、ちょっとだけその最後のときが楽しみでもある。
 

「日本人はなぜ無宗教なのか」

 投稿者:07ks1354  投稿日:2010年 5月20日(木)15時31分46秒
返信・引用
  日本人が行う数々の慣習も、著者のいう自然宗教と言われると、納得した部分もある。しかし創唱宗教と自然宗教に分けられたところで、私は自分が自然宗教の信者だとは思わない。私にとっては、墓参や賽銭箱にお金を入れてお祈りする行為は、生まれた時からある慣習的行為だったからだ。日常主義が浸透し、神に近づくことが容易になったから、人々は宗教を意識しなくなったというのは確かに間違ってはいないと思う。ただ、「神道非宗教論」とかそういうのには関係なく、私の世代にとってそれは当てはまらないと思う。その理由は、私たちの世代は、神に容易に近づける仕組み(賽銭箱や祭りの形態の変化)が整ってから生まれてきたからだ。生まれたときから既に神は近い存在だった。(別に神様が近いと意識したことはないけれど)だから、賽銭箱にお金を入れてお祈りするのも、墓参をするのも、それが慣習だと思っていた。ただ、その行為がどういうものか意識して考えたことがないので、考えてみたら宗教に行き着くのかもしれないが、しかし、これまでは宗教的行為だと意識したことはなかった。人類の長い歴史をみて、人々は宗教的行事を宗教と意識しなくなったのかもしれないが、私個人からしてみれば、意識しなくなったのではなく、はじめから意識もしていないということだ。だから、日本人は無宗教ではないといくら言われ、その起源を考えてみても、その過程に存在しなかったから、捉えにくい問題だと思った。
しかし、この本を読んで、改めて私自身が日本人の無宗教論をどう考えるかというと、無宗教かどうかは個人の意識によって違うものではないかと思う。つまり、著者が自然宗教だという日本人の行為が宗教的行事かどうかは、自分自身がどう捉えるかによるのではないかということだ。自分が宗教行事だと思えばそうだし、ただの慣習だと思えばただの慣習である。それを他人が宗教だとか無宗教だとか決めることは出来ないのではないだろうか。とはいえ、現代の人々にとって宗教とは「怖い、おかしい人々の集団」などというイメージがついているため、自分のやっている行為を宗教だと思うことには抵抗がある。そもそもなぜ宗教が特異なものになってしまったか、それを解き明かすための平凡志向についての話は、この本のなかで最も興味深かった。平凡志向は現代人にも共通するので、身近に感じやすいからである。現代人でも、特に若者には「人から外れないように、みんなと同じ」を目指して動く特徴がある。そうしないと、悪いことをしたらもちろん、良いことをして目立っても妬まれたりし、まさに「出る杭は打たれる」状態になるからだ。稀に少しでも目立とうものなら、変な目で見られ、現代でいう“浮いた”存在になってしまう。だから、人々は平凡であることを好むし、そうあることで安心する。これがムラの平凡志向からきているのかはわからないが、平凡主義は現代でも続いていると思う。だから、平凡とは離れた存在である宗教(ここでいう創唱宗教)を、人々が嫌がるのもわかる気がする。

この本は、日本人は本当に無宗教なのか考えるためには非常に興味深い内容だったし、これまで意識もなくただ慣習だからと思ってやってきた行為について考える良いきっかけになると思う。ただ、これまで宗教について深く考えたことのなかった私にとって、その内容は難しく理解できていない部分が大半だったので、私は宗教をどう捉えるかを中心に考えてみた。
私が自分を自然宗教者でも創唱宗教者でもないとこの本に対して異議を唱えるのと同様に、宗教をどう捉えるかについても、それぞれに見方があると思うと、この議論は答えがない、とても大きな問題なんだなと思った。
 

「日本人はなぜ無宗教なのか」書評

 投稿者:07ks1105  投稿日:2010年 5月20日(木)14時36分13秒
返信・引用
  「日本人はなぜ無宗教なのか」書評

宗教。大学生になってよく耳にするようになった。大学に入学するまでの生活では、宗教という言葉を意識することもなかったし、自分が何かの宗教に属しているという意識は全くなかった。欧米のようにハロウィンだからって、国民全体が仮想パーティしないし、イスラム文化圏の人のように、体を黒い布で覆ってないし、家には仏壇があるから、ただなんとなく日本人は仏教徒なのだろうと認識していた。でも、自分自身の中で、宗教をイメージするのは、欧米とか中東の世界であった。その為、墓参りも初詣もクリスマスも1年の中のイベントに過ぎず、宗教行為と意識したことはなかった。
 第5章の墓のない村で、著者は肉体よりも魂を重視するため祭儀の必要がなくなり、墓が重要視されなくなったと述べていた。しかし、私はこの意見には賛成できない。特に、「タマシイのない肉体は、文字通り、もぬけのカラであった。」(P172)はなんだか納得がいかない。遺体を焼く前に、体をきれいに拭いたり、女性であったら化粧を施したりするが、もぬけの空であったらそれも必要のないことであると思う。実際に、親戚の葬儀に親類として出席した時、遺体が焼かれる時が1番悲しかったのを覚えている。そしてその骨を、赤の他人と共に埋葬したり、ましてや焼く前に洞窟の中に放置させられるなんて、信じられないと思った。私は、魂も大切であると思う。しかし、魂は見えないものであり、生前に触れたり、話したり、共に過ごした肉体も魂と同じくらい大切である。だから、魂が抜けた肉体であってもそれを敬う必要があり、その肉体を安置する場としての墓は必要である。
 現代の日本の多くは、火葬で先祖代々の墓に入るというのが一般的である。しかし、欧米やイスラム教では土葬、驚くことにチベットでは鳥葬といって、遺体を裁断して断片化し、ハゲワシなどの鳥類に食べさせることが一般化している。(日本で鳥葬を行った場合は、刑法第19条死体損壊罪で罰せられる)この鳥葬もタマシイの抜けた肉体はもぬけのからとする考えから行われるそうだ。ほかにも、ヒンドゥー教で行われる、遺体を川や海に沈める水葬、沖縄や鹿児島県の奄美群島で行われる一度土葬や風葬を行った後に骨を酒や海水で洗い、再度埋葬する洗骨という処理方法もある。
 私は、自然宗教を信仰する地で育ったためか、現代の日本で一般的に行われている、墓というものを重要視し、死者の成仏に手間をかけて行うことが当然のことであると思うし、今後もこの方針を変えることはないだろう。この本を読んで、宗教による価値観で葬儀や死者への考え方も様々であり、死者への弔いの気持ちは同じであっても形式が大きく異なるということがわかった。なにはともあれ、鳥葬が一般的な葬儀の形式とされる地に生まれなくてよかったと心から思った!!笑
 

ラオスのこども

 投稿者:竹尾メール  投稿日:2009年 7月 4日(土)01時01分15秒
返信・引用
  今日は「ラオスのこども」@都営浅草線西馬込に行って来ました。
ビエンチャンの事務所と、週末の子供たちを対象としたボランティア活動を5月に見ています。
9月には、実習の一部として9/20(日)に一日ビエンチャンのこどもたちと交流するつもりです。またルアン・プラバーンでもスケジュールによっては、同じ事をするかもしれません。学習院女子大ではすでに数年来こうした活動を2月・8月に行っている由。これがなかなか元気があるようで、トイレのない村にホームステイとか、車椅子を届けるNGOを訪れたり。
http://japancenter.jica.go.jp/university2.html
http://www.aarjapan.gr.jp/lib/act/act0803-3laos.html
http://www.aarjapan.gr.jp/lib/act/img/act0803-3-5article.pdf
我々とは目的など少し違いますが、大いに参考になります。あるいは彼女たちにコンタクトを取って、事情を聞いてもいいのではないか。恐らく8月の研修に向けて準備の最中のはずです。

「ラオスのこども」との交流は、こちらが何を提供できるかを今後詰めることにしました。学習院女子大は紙芝居をラオ語でやったそうです・・・そこまでは準備できないでしょうが、リコーダーの演奏指導とか、一緒にお絵かき(しかしテーマを与えるなど主導的に)、折り紙指導とか。

7/19(日)には西馬込の駅前のライフコミュニティーセンターで、現地スタッフ(ラオ人)を迎えて報告会。一般向けには18時ごろからとのことです。打合せをかねてこの日がワンチャンス、後は皆さんが事務所と相談を進めて欲しいです。この日は白金でオープンキャンの明日にあわせてセネガルの校外実習の報告が15時から、本橋成一監督『バオバブの記憶』が16時からです。僕は主催者側なので、17時半くらいまではこちらに付き合い、その後「ラオスのこども」に行くつもりです。ゼミのpreserntationは10時から2字ころまででいいですか?

今後、情報共有のためにMLだけでなく、「掲示板」http://8325.teacup.com/takeoshigeki/bbs?M=FF にも書き込みます。ただし外からも読めるので、個人情報など慎重に扱いましょう。
 

成人式

 投稿者:07ks1046  投稿日:2009年 3月 1日(日)23時25分47秒
返信・引用
  ①07ks1046 岩井亮介
②大阪府吹田市  吹田市文化会館メイシアター
③午前10時30分~11時15分
市歌斉唱 来賓紹介 市長式辞、市議会議長祝辞、成人代表の言葉
④参加人数約3100人
⑤記念品 ストラップ
⑥式中飲食なし
⑦みんな自分のことを覚えてくれたこと。
⑧男性:スーツ、袴 女性:振袖
⑨スーツ
 

成人式

 投稿者:07ks1097  投稿日:2009年 2月 1日(日)13時47分29秒
返信・引用
  ① 07ks1097 岸里織
② 神奈川県横浜市 横浜アリーナ(成人式の規模は日本最大級)
③ プログラム
1月12日(月)第一回 10:30~11:05・第二回 14:00~14:35
・国歌斉唱
・挨拶(横浜市長:中田宏・横浜市長議員:吉原訓)
・来賓紹介
・成人式の誓い
・成人式へのメッセージ
・馬渕智子さん・西山麗さん(ソフトボール女子北京五輪代表 金メダリスト 日立ソフトウェア所属)
・市歌斉唱
④ 参加者:35,593人(新成人の人数)
⑤ 記念品:なし
⑥ 式中の飲食:なし
⑦ 男性:ほぼスーツで、一部の暴れている人たちが派手な袴を着ていた。
 女性:振袖
⑧ 私の格好
振袖だけは祖母に買ってもらい、その他の帯などは、母や親戚のお下がりを使用した。
当日の着付け代3万で、かかったお金は前撮りを含め17万程度。
6時~9時 美容院で着付け 約8時間振袖を着ていた。
⑨ 式後の予定
18:30~ 高校の学年全体の同窓会
21:00~ 中学の学年全体の同窓会
⑩ 印象的な人
・アリーナ前で金色など派手な袴を着て打ち上げ花火しっていた集団
・金色の髪色でおかっぱ頭の女の子が真っ赤な振袖を着ていた
・チマチョゴリを着ていた女の子
⑪ おいしかった料理
朝食のお赤飯と味噌汁
⑫ 感想
前撮りは親戚のカメラマンに撮ってもらったり、祖母が振袖を買ってくれたり、家族や親せきからも、たくさんお祝いの言葉をもらえて、家族の温かさを改めて強く感じました。日本最大級の規模と言われる横浜市の成人式での人の多さにはびっくりしました。そんな中でも、小・中・高学校の友達にたくさん会えたことが嬉しくて、道端で会うたびに写真を撮っていました。また、道の中心で打ち上げ花火をして暴れていた集団や、式中に真っ赤な袴を着て市長の前で暴れていた人が中学の友達だったことにも驚きましたが、久しぶりに会った友達の変化も感じられて楽しかったです。式後の同窓会も、みんなのために企画してくれて、先生からのビデオレターを見たり、みんなと楽しく過ごせて、中学や高校時代をとても懐かしく感じました。この日を機に、私をここまで成長させてくれた家族や親せき、たくさんの友達や先生方、支えてくれた周りの人たちへの感謝の気持を忘れずに、日々生活していこうと思いました。私にとって、成人式という一日はとても良い思い出となりました。
 

レンタル掲示板
/9